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2010年9月 アーカイブ

2010年9月 3日

ワインに合うもの。


豚肉のパテ。
これ、おいしかったよ。便利だし。


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パッケージかわいい。味はあっさり。

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オクラの芽とひまわりの種のサラダ。

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2種のチーズとパテと林檎のスライス。


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2010年9月 5日

直線の交わるところ。軌道の交わるところ。

今更わかったことがある。


でも、これはわたしにとっては結構発見だ。


何かに「固執」することをやめよう。


さきに一つ言っておくと、それはなにかをあきらめなさいといって
いる訳ではない。

たとえば、自分の夢とかやり遂げたいことに関しては、
わたしは簡単にあきらめるべきではない、と思っている。

ここでいう、「固執」とは、自分の意志ではどうにもならないことに
関してのことだ。

それは、他者の感情や物事の決定事項や、
世界で起きていることのほとんどのことに関してだ。

自分が自分の夢や、成し遂げることに関して固執するのは
良いことだし、本気でやろうと思えば、ぜったいに遂げられるはずだ。

でも、それ以外のことに関しては、その「固執」は
なにもかもを妨げてしまい、結局自分にとって思わしくない結果を招く。


それは、自然の流れに反した行為だ。


考えてみれば、わたしたちは走り出した電車を止められない。


飛び立った飛行機をとめられない。


花の蕾が開くのをとめられない。

川の、風の、雲の流れをとめることはできない。


それを止めようとするということは、
自然の営みに抗うのとおなじくらい、ほぼ不可能といっていい。


わたしたちは、見えないレールの上をゆく。


それはある時は直線を描き、ある時は軌道を描く。


直線をゆくとき。

ある時点で誰かや何かと交差する。


その一瞬、その点をとらえればいい。

軌道をゆくとき。

ある時点で、誰かや何かの軌道と、わたしの軌道が交わる。


その一瞬を見逃さないように生きる。

それは近づくが、また必ず、遠ざかる。


運が良ければ、また次のタイミングで、出会えるかもしれない。


でも、それが直線なのか、軌道なのか、誰もわからない。

そしてその点は無数に存在する。


わたしたちは、確実に進んでいく。


だから、心だけがとどまっていてはだめだ。

軽やかに生きていたい。 


また、いつかあなたと出逢えることを信じて。


2010年9月 7日

シューマンとブラームス。

「普通」であるように振る舞うことの困難さについて。

それをしていないと、


社会から「抹消」されてしまうんだってさ。

こわいこわい、社会はこわいな。


嫉妬に満ちている。

「いいんですよ」、「全然平気ですよ」、といいながら、

平然と気にくわないだれかを殺す。


そしてだれも、殺された人の苦悩をしらない。

均質化のなにが面白いのか?


嫉妬と羨望は紙一重。

2010年9月 8日

Summer Flowers・・☆

夏の黄色い薔薇。とても綺麗。

それから、青みがかったピンクのカーネーション。

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すこし恥ずかしがり屋の、レモンイエローのガーベラ。


とてもかわいくて涼しいね。

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きのうのブログは、映画「クララ・シューマン 愛の協奏曲」を観ていておもったこと。

衣装とか時代設定が好き。


「創作」が生まれる現場を忠実に再現しているように私には思える。

そして役者が良すぎるね。


2010年9月12日

嬉しかったこと。

素晴らしくすてきな写真を撮っていて、
世界44カ国を旅している方から、

「『夜音』が音楽以上のものになっています。」
とのコメントを頂き、大変嬉しく思っています。

音楽以上って、相当嬉しいですよ・・!

2010年9月13日

きのうのごはん。

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もち米入りの皮でつくった紫蘇入り餃子。


フードカッターで材料を微塵にするのがたのしい。


シメジとエノキ茸の炒め物 塩かぼす風味。

さっぱりが美味しい。

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スペアリブの炊き込みご飯、排骨飯(パイクーハン)。


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2010年9月16日

a girl

宝石箱はお母さんからもらった。
葉っぱが鎖状になった模様が彫ってある銀色のちょっと重たい蓋をあけるとぎ、
同時にギィーという音がして、それからオルゴールの音が聴こえだす。

箱をあけるとそこにはエメラルドやサファイヤやルビーの指輪。
ダイヤモンドの髪飾り。パールの腕輪。ほかにも名前のわからないピンクや黄色い色をした宝石たちが、箱いっぱいにつまっている。
宝石以外にはアンティークの手鏡。古いレース編みのハンカチ。

わたしは鏡の前で、それらをひとつひとつ着けてはポーズをとってみる。
「これは社交界の貴婦人よ。」とか、「これはお姫様の大事にしている首飾りよ。」とか独りごとをいったりしながら。

お庭の草むらのしずくは、明け方に雨が降ったから。
ライムグリーンの色をしたバッタが、しずくのついた葉っぱのうえにぴょんと跳ねた。
お米粒と同じくらいの小さい蜂が、庭いっぱいに咲いている薄紫の小さいスミレの花を、
ひとつひとつ回ってゆっくりと蜜をあつめている。
わたしはスミレの花を指先で、ちょこんと触れてしずくを落とした。


「ひみつの場所いったことある?だれも知らないお花畑なの。」
「ううん、知らない。どこにあるの?」
「わたしのお家のちかくよ。いってみる?」
「うん。いってみる。」・・・・。


そこはわたしが予想していたよりずっとずっと不思議な場所だった。
小さな団地の前にあるお花畑。

ここは細い路地からさらに少し奥まったところにある。
3棟ある団地にはそれぞれ同じ面積の庭があるのに、一番左に位置するこの3つ目の庭だけはまるで大人にはいっさい見えていない場所のように、なぜか閉ざされていて、その中には見たことのないくらいたくさんの種類の花々、鳥、蝶の群れ、蜂やてんとう虫が生息し、あふれんばかりの色彩で咲き乱れていた。


「ほんとうに。ここはひみつのお花畑ね。こんなにすてきな場所があったなんて。」
「みんなには内緒よ。2人だけのひみつにするって約束できる・・?」


わたしたちは、そこにある綺麗なお花をつなげて冠をつくって遊んだ。
「王さまと王妃さまよ。」

まるで時間の流れが止まっているみたいにその花畑は、普通の場所より明るい色彩だった。そしていつ行っても、同じ温度と時間の流れ、同じ陽の差し込み方だった。
とても不思議な場所だった。


それは幼くて遠い日の記憶
ひょっとしてあそこは天国だったのかな。
それが夢だったのか、あるいはずっと長い間わたしがその夢のなかに生きているのか。
ときどきわからなくなってしまう。

お母さんからもらった宝石箱を、わたしはたまにあけてみたくなる。
ギィーという音がして、オルゴールの音がとぎれとぎれに鳴り響いた。


■曲目リスト■


M1:Girl in train singing/Peter Cusack

M2:Grobe Erwartungen/Wechsel Garland

M3:Are you ?Yes!/Opiate

M4:untitled/Nuno Canavarro

M5:チェブラーシカの歌/

M6:Absent/Jodi Cave

M7:The way you look tonight/Air

M8:Take t he waking/Tara Jane O’Neil

M9:untitled/Nuno Canavarro

M10:When Debbie’s Back from Texas/Stina Nordenstam


2010年9月20日

夢のなかの指輪とかお菓子とかお箸とか。


知り合いのIさんに頂いた手作りバジル味のスコーンが美味しくて、
レシピ知りたい!と言っていたら、数日後にこの本をプレゼントしてもらった。


まだつくってないけど、こういうのはちょっとずつ読むのがすき。

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国重直子さんが描いた絵がプリントされたお箸。
国重さんはケータリングをトータルでデザインされています。
先日の中目黒の個展では、
彼女のつくったお料理が美味しくて、見た目もきれいでほんうにステキでした。

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これは飛田左起代さんが下さったもの。

いろんな石がばらばらにつらなっている指輪。


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ほんとうは、夢からさめたくなんてなかったのに、

あの日眩しい朝陽が邪魔をしたんだ。


それさえなければ、わたしはいまだって、

ずっと眠りつづけていたはずでした。


だって、すごくよく眠れたんだもの。

よく眠れることがあんなに幸せなことだって、しらなかった。

だからせめて、今夜いいゆめをみましょうね。


宝石の石のなかへいっしょに遊びにゆこう。


おやすみなさい。

2010年9月25日

舞台空間の不思議について。

妹が出演するバレエの発表会があった。

2年前までわたしも出演していたのだけれど、
もうどうにもこうにも忙しすぎるのと、音楽にきちんと専念したいのとでこの2年は遠慮している。
なので、裏方に徹するこの2年間。


妹はダンスの才能があるのでぜひこれからも続けて欲しいとおもう。


バレエ特有なのかもしれないが、才能があるのにやめてしまう少女たちのなんと多いことか。


だからこそ、続けられる環境なのであれば続けてほしい。
そう思う。

舞台の上では何も隠せない。


その人の性質、個性、精神そのものまでもが如実に現れる。

なので、ダンサー及び舞台人たちは日頃からそれらを意識的に磨かないといけない。

他のメディアでは隠せても、舞台だけは隠せない。

その覚悟が舞台人には必ず必要だと思う。


ミネロビッチ=ダンチェンコ記念国立モスクワ音楽劇場バレエ団でソリストを務め、
その後帰国しダンサーとして活躍している桑原智昭くんは幼馴染でもあり、
尊敬するダンサーの1人でもある。

彼のダンスは、まるで上質の絹とかカシミヤに肌が触れた時感じる至福のような、
贅沢な感覚を覚える。

年を追うごとにそのダイナミックさ以上のきめ細かさを増しており、
その質の良さというものは、なかなかお目にかかれることがないものだ。
ずっと触れていたくなる生地のように、もっとずっとみていたいと思わせる特別な存在だ。

新国立バレエ団の江本拓さんもすごく尊敬に値する人物だ。


レッスンを見ていればわかるが、こんなに努力家で、完璧主義者で、
ストイックなダンサーは私の知る範囲ではいない。


全てが研究しつくされ、計算しつくされた表現。
美しすぎて、ひれ伏したくなるような存在感。

でもそれは、気の遠くなるような努力と研究と実践から
生まれ出ているものだということが分かるのだ。

その精神を、心から尊敬します。

もう一人、Kバレエカンパニーの遅沢佑介さんについて書きたい。

バーレッスンを一緒にしていれば一目瞭然なのは、
まず、大変記憶力がよく、頭脳明晰な方だということだ。
それが、肉体を伴っているので、なおさらそう思う。

それと、ペース配分の凄さ。

これは学ぶところが多い。


スポーツ選手にも共通の課題なのかも知れないが、

一流の人というのはペース配分をしっかりできる人なのではないだろうか。

遅沢さんは、リハの時決して本番通りには踊らない。

場当たりくらいの感じでこなしている。

これは推測だがその分、位置とか音とか流れを確認しているのだ。

「本番が一番良くなけれな意味がない。」

彼の行動はそう言っているように思える。

そこに並々ならぬプロ意識を感じている。

最後に言うと、舞台とはやはり超過酷な戦場なのだ。

でも、その戦場を楽しめてしまうものこそが、
楽しめるほどの余裕をもった者だけが、
舞台人と呼ぶに相応しく、舞台人になりうると思っている。


2010年9月27日

久々オシレータライブします。。☆

ずっと新曲制作していたので久々のライブ、楽しみです。

よかったら遊びにいらしてください。

今回は3人編成でシンプルにやるつもりです。

2010年10月24日(日)@下北沢440


『音になる』  OPEN 18:00 / START 18:30
前売 \2000 / 当日 \2500 (1order \500 別)


【出演】oscillator ・麓健一・三村京子 ・Ryo Hamamoto ・ジョンソンtsu

前売予約は各出演者HPからのメール予約 ・440 店頭販売

2010年9月28日

この国で社会で世界で自分を保つということ

この数日間、考えなければならないこと、こなさなければならないこと、
それを超える情報量にどうにかついていっている。


今年の初め、ある出来事をきっかけに、
わたしはあることをやめた。


それは、音楽とちゃんと向き合いたかったからだ。
それは、音楽に向き合うにはまったく必要のないことだと確信したからだ。


だからほんとうは、気持ちのうえではわたしは社会と断絶したいとおもっている。
もう、ずいぶん前からだけど。

働くのは生きるためだけど、それ以外には創作にとってプラスになることなんて
ひとつもない。これは本当にそう思う。

でも、働かないと死んでしまうので、どうにか繋がっているっていう感じ。

(もともと社会科見学のつもりだったけど、いまだってその気持ちは変わってないけど。
でもそれにしては、理解がありすぎるくらいある場所だとは思っている。みんな優しいし、
わたしはみんなのことが好きだ)

この国で、社会で世界で、自分を保つのは難しい。


いつだってギリギリのバランスでわたしの精神は成り立っている。


あるゼミの資料でもらった、1981年の山塚アイさんのハナタラシインタビューの
記事にすごく共感した。

とてもここには書けないようなことが書いてあるが、
心から共感した。

その、開かれたメディアの姿勢と山塚アイさんの気持ちを隠さない姿勢に感動した。

私から言わせれば、この社会で自分を保つのは難しい。

なぜなら、この社会は、「普通」であること、「普通」にふるまうことを前提としているからだ。

それが、ほんとうに息苦しくてしかたない。

なにか、世の中にちょっと認められた人の奇行だけは了解して、
それ以外の思想も行動もはすべて排除の姿勢で。

世の中的に偉いことになっている人々がつくりあげた、
「正しい」「全うな」人になろうとか心底思わない。

そんなの超つまんない。


はっきりいって、言いたいことは山ほどある。


でも、ここでは言わない。


面倒くさいことになるだろうから。

とにかく、ここ数日ずっと感じているのは、
もうなにもかも考える意味すらないんじゃないかと思えるほど、
変わらないっていうこと。

人間が、人間の最悪の部分から目をそむけ、
自分にはその性質は決してないのだ、と思いこんでいる限り、
その偽善に満ちた世界が変わるわけないだろう。


偽善を偽善とも思わず、
自分は潔白なんですと思いこみながら、
自己肯定のみで生きられたらどんなに幸せか。


自分らしく生きたいだけなのに、
一生本当に思ってることすら言えないなんて馬鹿なんじゃないか?

皆さんがそれについて、
どのように思っているのかぜひ伺いたいです。


2010年9月30日

コメントくださったマスイさんへ

こちらのシステムの問題?で、
コメントに対する返信ができないので、
ブログで返信しますね。


マスイ:
ツイッターの方でコメント拝見しております
マスイ(masui_goto)と申します。
うまく文章にできないと分かってはいるのですが
しかし、なんとかコメントを残したいという想いはあるので
頑張ってみます。

>ツイッターからわざわざきてくださってありがとうございます。
大変うれしくおもいます。

今、AM2:40で、明日も朝からバイトなので本来ならば
寝なくてはならない、けれども「気になる」ことが
あると目が冴えてしまい、自分の中でなんとなくでもいいから
結論の形が見えてこないとソワソワしてしまうのです。

>わたしもその気持ちよくわかります。

私はできるだけ「音楽」というものに対して
純粋な気持ちで接したいと思っています。
しかし「純粋になりたい」という願望そのものは
もしかして邪念であり
「気づいたらそうなってた」、というぐらいではないと
「音楽」の懐に入り込めないのかしら、とも思っています。

>純粋でありたいということは音楽を創る人はみな思っていることかも知れません。

「純粋になりたい」という願望は邪念ではありません。
すてきなことだと思います。

「純粋と思われたい」という発想が邪念です。


理想の音楽、曲を追い求めようとすればする程
自分の才能のなさに落ち込み、グダグダしてしまい
自分を憂うような感情になります。
理想と現実の差はこんなに大きく開いているのかと。


>そうかしら?
それはマスイさんが謙虚にそう思われているだけかも知れませんし、
わたしはマスイさんの音楽を聴いたことがありませんが、
才能のない人なんていないですよ。

才能のあるように思われている人は、自分のことを良く理解し、
欠点も美点も知っている人で、
その活かし方を知っているだけだと思いますよ。


このように、本来ならば「今やらなければならないこと」
があるにも関わらず、「気になること」が頭の中を埋め尽くして
くる、ということが結構あったりします。
(結果遅刻とかしてしまいます・・)

でも今回の日記を読んでいて
またそれに付随してあれやこれやと考えていたら
とてつもなく胸が苦しくなってきまして
このようにコメントを書いています。

まったく関係ない内容になってしまったかもしれません、すみません。

>大丈夫です。この世に関係ないことなんてないんですよ。


ライブが近づいてくると
だいたいすこーしナイーブになる傾向があるようです。

またお邪魔してしまうかもしれません。
それでは失礼しました。


>ナイーブはわたしもよくあります。
いつでも、いらしてください。
どんな音楽やられてるのかも、よかったら教えてくださいね。


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