ピアノはいつピアノになり、いつピアノでなくなるのか?-機械が身体になる日-

※以下の文章は誠に僭越ながら虹釜太郎氏の呼びかけにより、2010年9月から2012年春まで行われていた10名以下の非公式の集まりであるパリペキンゼミ@浅草橋天才算数塾に於いてわたしが書いた文章です。

とくにブログ等で発表しようとも思っていませんでしたが、そこにはわたしの問題意識や本質があると思い、今回虹釜さんの承諾を得てブログに掲載することにしました。

たった数名だとしても私も誰かに見せる前提の文章など書いた経験もなかったですし、その内容については非常に直線的でお恥ずかしい限りですが何とぞご了承ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これはわたしの推測に過ぎないが、人類初となるピアノを目撃した人間(パイプオルガンでもチェンバロでもよいけれど、とにかく初めて鍵盤楽器を見た人間)の第一声はきっと、

 

「この、重くてかたい『機械』はいったいどうやって動かすのですか・・?」

だったのではないだろか。

 

機械とは、人間が作り出したものであるが、その複雑な構造というのは一見して分かるものではなく、それに精通した者と作ったものしか分かりえない。

その一見では分かりえない複雑な構造こそが、機械を機械たらしめているのであり、それが、その距離感こそが私たちが機械を機械と呼んでいる理由なのではないだろうか。

 

 

ピアノがピアノであると認識される以前の、その機械を初めて見た人間が何を感じたのか?

 

 

そこには少なからず「違和」があったはずである。

「違和」とはこれまで馴染んできたものではないものに対して生じる感覚であり、それは時に拒否反応を引き起こす可能性をはらんでいる。

 

そして「違和」とは、初めての感覚であり、裏をかえせば最も新しいことに対する感覚であるとも言えるだろう。

 

そこには可能性が満ちている。

例えば時代の流れの中で何か新しいことを見つけだそうとした時、その対象や現象に「違和」を感じるか否か?はかなりの判断基準になる。

大抵の人間はその「違和」に多少なりとも拒否反応を示す。けれども、そこには常に次の時代の基準となっていくような価値が含まれている可能性が、少なからずあったりもするのだ。

 

 

 

ピアノがピアノとして生まれた時、人間にとってそれは「機械」そのものだった。

 

 

それが長い時間を経て、今となっては最も「身体」に近いような身近な楽器。アコースティックな楽器として世界中で親しまれている存在になった。

 

 

それは「違和」が「自然」になっていく過程とよく似ている。

 

 

共通しているのは『時間』の存在である。

 

時間とはなんとも不思議な存在で、それがすべてを解決してしまうことさえあるのだ。

ただし、「時間」はかかるけれども。

 

 

 

そしてそれに付随するのは、『身体というものの順応』と『繰り返しに対する愛着』である。

 

わたしたちの身体は、あまりにも順応性が高い。

 

それは生物が生き延びるための本来備わった機能だろう。

 

 

どんな時代においてもどんな環境においても、人間はその生を全うすべくその身体を時代に順応させることがまるで使命かのように無意識のうちに、順応させ適応させてしまう。

この、人間に本来備わった能力こそが、人間が長らくこの地球に君臨し、まるで支配者のごとく存在していくことができた最大の理由ではないだろうかとさえ思う。

 

それはわたしたちが生きていくことに関わるすべての事柄、すなわち政治や教育や戦争や生活や食や地域ごとの自然環境ついて考えるとき、決して考えることを外すことのできない機能である。

 

政治や教育や戦争において(政治や教育は戦争ほど速度は速くなく劇的なものではないにせよ)は、その概念・判断基準・価値・善悪についてなどが、一瞬にして変わってしまうという前提の上でそれらにそれぞれのレベルで対応し、生活や食においては、社会や経済や個人の事情とも深く連動しながらも、それぞれがその時代や立場において手に入るものを食し、生活品を選び取り、また自然環境においては時代ごとに変化していく環境・地域ごとの環境・季節の変化や予測不可能な自然災害などに対しても、その都度それらを受け入れその方向性を模索し生き延びてきたのである。

 

 

繰り返しに対する愛着については、わたしが最近ずっとテーマに考えてきたことである。

家族や友人や様々な人間関係・また日常的な行為全般というのは「繰り返されること」によってその強度と関係性を強めていく。そしてそれは、愛着へと変化してゆく。

 

たとえば家族というのは、最初から家族なのではなく、幾度となく繰り返された結果の愛着でしかないのではないのだろうか。

それはあらゆる人間関係において言えることであり、そのことについて人は少しロマンティックに考え過ぎではないだろうか。

そしてその行き過ぎたロマンティシズムが作り出した幻想が、家族という形態が崩壊したことについて・またはそれが崩壊したことを憂うかのように語るけれども、もともとそれが幻想なんだということを認識していれば、それらの人間関係についてもう少し冷静に考えていくことができるのではないだろうか。

 

 

物事を本当にニュートラルに考えることができる状態とは、一度も繰り返さない状態においてのみ可能なのではないかと考えている。

なぜならば、そこにはまだ愛着というものが存在していないからである。

ただし、予備知識や先入観がある場合、それがたとえ初めて遭遇したものであっても、すでにニュートラルに考えられているかは疑問である。

 

マスメディアにおけるコマーシャルやラジオのヘビーローテーションにおける効果においても言えることだが、『繰り返しに対する愛着』はその人を取り巻く日常的な環境や、もっと個人的な習慣や志向における行為によって第三者にそれを無意識のうちに植え付けていることと、それらは本来そのために存在していることも踏まえて考えなくてはならない。

 

 

 

一度も繰り返さない状態において、わたしが感じたこと。その感覚を忘れずにいたいのだ。

人が初めて機械に触れたときの、冷たくて慣れない感覚や感触を覚えていたいのだ。

 

 

ある瞬間から、「違和」をなくした存在は、やがて日常的になり、それは「自然」という認識をされてゆき、わたしたちの生活に浸透し、溶け込んでゆく。

 

その時、それが最初に私たちに与えた「違和」はすでに跡形もなく消え去り、まるでそれが生涯の友か肉親かのように「自然」にそこに存在することとなる。

 

そうやって「時間」の存在が、機械という名の違和を身体という名の自然に変化させてゆく。

 

これは、人間やその他の動物や植物であっても、物質や文化的なアウトプットやあるいは目には見えない流動的な情報や概念や言語や社会現象と言われる曖昧なものにおいても言えることなのだ。

 

 

 

ピアノがピアノであった時とは、

ピアノが人間にとって機械の存在であった時だ。

 

ピアノがピアノであった時とは、

まるで初めてノイズ音楽を聴いた人間が、それに完全に拒否反応を示す状態と同じくらいの、違和感とある種の恐怖感と人によっては不快感を示した時点の事を言うのではないだろうか。

 

 

ピアノがピアノであった時とは、

まだその存在を上手く言葉にすることができず、誰かに伝えようにもそれを伝える術を知らなかった時のことではないだろうか。

 

 

ピアノがピアノであった時。

それはピアノが人々に受け入れられる以前の状態の時間においてだけ有効だった。

 

 

 

ピアノが、ピアノでなくなる時。

それは、その有効期間が終わる瞬間から始まっていた。

 

 

けれども、それを世の中が知ってか知らずかそれを延命していく為に、

ピアノはその時点から偽り始めなければならなかった。

 

 

その偽りこそが、ピアノの背負った宿命であった。

そのことにその時点で、ピアノ自身は気づいていなかった。

 

 

ピアノはもう、「違和」をなくした「自然」になり、

それは機械ではなく身体になった。

 

そしてそれは、いつのまにか「当りまえの音楽」になってしまった。

 

 

今日において、ピアノを「機械」だと思う人はまず、いない。

 

それはもはや音楽を奏でる装置ではなく、わたしたちの感情を表現するのにもっとも近い楽器となった。

 

 

 

 

電子音楽の中のピアノはもはや、もはやわれわれの身体と化したピアノの姿すら消失してしまっている。

 

数百年間も偽りを続け疲れ果てたピアノは、次なる機械に飲み込まれた。

それは、偽りに苦しみもがき、疲れ果てたピアノが早く楽になりたくてずっと待ち望んでいた事だったかも知れない。

 

 

とうの昔に死んだピアノを素材にして、それをいくつにも刻み込み、分断し、再解釈されたその電子音たちは、偽り、その再生を試みる。

それは死体を素材にした音楽だとも言えよう。

 

 

同じようにコンピュータという機械も、いずれ身体になってしまう日が来るのだろう。

そしてまた、次なる機械に殺され、刻み込まれ、分断され、再解釈された音楽が、死んだコンピュータを素材にして奏でられるのだろう。

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