2012年2月 2日
苺のきおく。
苺を食べたくなって、同じ銘柄の違うブランドを2パック買って、
食べ比べした。
苺なんて、ずいぶん久しぶりに買った。
たしか、いつか天使がプレゼントしてくれたっきり。
それからずいぶん長いあいだ、苺を口にしたことがなかった。
苺といえば、小さい頃は実家で苺みるくにして食べるのがお決まりだった。
苺のつぶつぶのスプーンで潰して、お砂糖を混ぜて牛乳をかける。
きょうは、三温糖と豆乳でやったところ、大変美味しかった。
あゆちゃんと、エッセ・ドゥエでランチ。
わたしはここの釜焼きピザがとても好き。
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2012年1月29日
tamaru+横川理彦+Sachiko M
tamaruさんの事は、佐々木敦さんの本や、
虹釜太郎さんから幾度となくその名を聞かされていたために、
名前は存じ上げていましたが、
恥ずかしながら実はライブは拝見したことがありませんでした。
けれども、ある知人の紹介がきかっけで、tamaruさんと面識を持ち、
それから数ヵ月後に、tamaruさんがoscillatorの夜音をに関する
ご感想を直接下さったのでした。
とても恐縮しましたが、tamaruさんのご感想を頂けることはとても嬉しく、
光栄なことでした。
荻窪からの行きのバスで偶然にも虹釜さんに会い、
そこでtamaruさんやユタカワサキさんや音響系と言われる音楽家の話をしました。
そこで虹釜さんがおっしゃっていたことには同意しますし、
内容については書きませんが、私はそれでよいのだと思っています。
tamaruさんと横川さんの演奏を拝見するのは実は初めてでしたが、
逆にSachikoMさんのライブは、10数年ぶりに拝見し、
その佇まい、そして奏でている音に関しは、
究極に洗練されストイックさをさらに増していて、
その存在がある種の「権威」にすらなっている印象を受けるくらい、
「ある1つの音の価値」というものを考えさせられるものでした。
tamaruさんのベースは、
まるで誰かと2人ソファーで団らんをしているときのような心地よさを保ちながら、
時に静寂を奏で、時に緊迫しており、
その空間の「空気そのもの」を支配してしまうような懐の深い演奏でした。
横川さんのバイオリンは、これは見ないと分からないかも知れませんが、
本当にすごい。
あんな風にバイオリンをノイズやら何やら「別の音を出す機械」として奏でてしまう方を、初めて観たわけではないけれど、
横川さんのそれは初めてでした。
癖になるような音でした。
そんな、個性的なお三方の集まっって奏でられる音楽は、
もうほんとうに夢見ごごちのようなところがあって、
私はこんな洗練の極みのような音楽が演奏される瞬間に立ち会えて、
とてもうれしかったのです。
それで、もしご興味を持たれた方がいたら、今日私が会場にて購入した
[TAMARU Live Recorwithding 2011 with Tadahiko YOKOGAWA and Sachiko M]
というCDを聴かれることをおすすめ致します。
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2012年1月28日
単純なことだけしか。
刻一刻と過ぎてゆく時間が、恐ろしくもあり愛おしくもある。
過ぎゆく時間を噛みしめながら生きることこそ、
私がいちばん大切に思っていることかも知れない。
今起きていることが、二度と繰り返されない時間であるならば、
まず、それを大切にたいせつに感じながら過ごそうと思う。
それから、その次にはそれを繰り返し思い出すこと。
思いだしながら、再び感じること。
私にはそんな単純なことしかできない。
それを何十回、何百回とくりかえし思いだしながら、
あなたを思いだして感じることくらいしかできない。
あなたが近くにいようと遠くにいようと、
生きていようと死んでいようと、同じだ。
わたしが思いだすあなたは何度でも再生可能でいつでもきっと、素敵だ。
私の意識がある限りは。
いいえ。無くなってもなお。
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2012年1月24日
庭のこと。
もうきみは忘れていると思うけど、
いつかきみが教えてくれた「庭」の映画、すてきだった。
だからというわけじゃないけど、庭に関する音楽について考えている。
考えるってなんて非生産的で無意味なんだろう。
でもね。同時に、誰かにとっては生産的で意味もあると思いたい。
いや、そんなことはどうでも良くて。
ぼくは今、庭のコンピをつくってる。
あ、むかしきみが書いた文章とか読みなおしてね、
きみってすごい人なんだって思っている。
子どもにとって「庭」っていうのは、
四季を認識したり自然を身体で感じる不思議の宝庫。
蟻とかバッタとか蝉とか、蜂とか、色々な蝶々とか、カタツムリ、
蛙、イモリやヤモリ、たくさんの鳥。
そこはいろんな生物を感じるための場所。
好奇心のかたまりを満たしてくれる場所だった。
きょうの終わりにね、聞きたいことがひとつあります。
きみは、誰かといちばん話したかった話ができているの?
もしきみがそれをできていないのだとしたら、
僕はきみと話しても、いい・・?
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2012年1月19日
きみにたくさんのシアワセが。
降り注ぐでしょう。
きみにたくさんのシアワセが降り注いだら、
その雨のなかでいっしょにダンスしましょう。
投稿者 mayumi : 03:31 | コメント (0) | トラックバック (0)
2012年1月15日
逃げる。
あなたは不可解。
あなたは素直。
あなたは孤独なのに寂しがり屋。
そしてなお、無邪気。
あなたをすべて理解することは不可能。
あなたの意識はいつも気高く。
あなたはだれ・・?
わたしは知っているわ。
でも、わたしは存在しないの。
わたしは空気だから。
それを聞いたあなたは逃げる。
わたしも逃げる。
空気が逃げたって、何の意味もないのに。
だけど空気も、逃げるのよ。
空気にも意志があるの。
そしてわたしがいま言ったことは、すべて嘘よ。
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2012年1月13日
ワン・チュエンアン「再会の食卓」
とてもよい映画だった。
色々な意味で、心に残る作品。
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2012年1月12日
きみのすきな
きみのすきなもの、すきなおとは
やっぱり 愛おしいね。
だからきみのすきなものやすきなおとや、きみのすきな景色をかんじながら、
このじかんを過ごすことにするよ。
すこしづつでいいから、ちゃんと感じたいんだ。
きみがそれをすきな理由を。
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2012年1月11日
欲望について
人間の欲望についてずっと考えている。
わたしたちはいったいなぜ欲望するのか?
それは本能という自らの意志を超えた存在からのものが、
殆んどをしめているのだとすれば、
「欲望」という存在について考える時、
いったい文学や音楽や映画やダンスや演劇や、
写真や美術や表現全般は、
どんな顔をすればよいのだろうか。
「欲望」という根源的な存在だけについて考えるとき、
その周りをとりまくロマンティックな存在すべてが、
まるでそれの奴隷なのだと言わざるをえないくらい、
それがあらゆることの原因であることを認めざるをえないことに気づく。
仏教においては無欲を美徳とし、それを目指すが、
それを目指すことそれ自体が「欲」であるという認識も無論ある。
欲望にかなう芸術など、おそらくありはしないと思っている。
なぜなら、それはある意味で同義だから。
(唯一それを超えるものがあるとすれば、
もしかしたらそれは「自然」という存在だと私は思う。
芸術とは何か?という定義は、大変難しいものではあるけれども。)
言いかえれば、芸術は欲望の断片であり、
それ(欲望)を吐き出すために、
そして満たすためにあるのではないだろうか。
欲望がすべて満たされた時、
私たちは芸術を必要としないのだろうか。
芸術表現とは、
満たされない欲望を満たすための行為に過ぎないのかも知れない。
欲望がすべて満たされる状態とは、
いったいどんな状態だろうか?
そしてその時、
人はどんな心境になるだろうか・・?
それでも人は、何かを欲望したいと願い、
それを満たしたいと思う。
私たちは満たされたいがゆえにただ、生きているのかも知れない。
投稿者 mayumi : 00:32 | コメント (0) | トラックバック (0)
2012年1月 9日
映画「ブンミおじさんの森」
アピチャッポン・ウィーラセタクンの「ブンミおじさんの森」を観た。
彼の映像作品は、2年程前に日暮里のSCAI THE BATHHOUSEで初めて観たんだけれど、
その時の火の憑いたサッカーボールの映像が忘れられなくて、
その後度々美術館などで彼の作品を目にしてはいたものの、
この映画をやっと観た。
生と死の挟間、現実と夢の挟間を行き来するこの物語りは、
まるで詩のようで美しかった。
多くの西洋人には理解しがたい感覚かも知れないが、
観念的で非現実的で幻想的、そして輪廻転生の価値観を、
日常的な描写のなかに見出すアピチャッポン・ウィーラセタクンのバランス感覚こそが、
この映画の最大の魅力であるように思う。
そしてそれは、わたしが日々感じているあたりまえの感覚に近かった。
自分のあたりまえの感覚は、
東洋的な思想や宗教観に基づいているのかも知れない。
最後にこの作品に「意味」を見出そうとすることは、
この世界や自然の神秘に意味を見出そうとすることくらい、
全くの無意味な事であるのではないかと感じている。
投稿者 mayumi : 21:10 | コメント (0) | トラックバック (0)
