沖縄の古い民謡を聴いていると、その瞬間から異空間に放たれる。
私にとって心を解放し解き放つ音楽という意味では、
「アンビエント」~「ドローン」~「エレクトロニカ」及びその周辺の音楽と同じ位、
「民族音楽」という存在が必要不可欠だけれど、
古い沖縄民謡のそれは、とても特別な意味がある。
私は90年代の後半に、沖縄に住んでいたことがあって、
その音楽は私の記憶と密接に関わっているのだ。
(その辺りが虹釜太郎さんらとの重要な共通点かと勝手に思っている。)
けれど、この話はまたいつか。
前衛書家である石川九楊さんの個展最終日に伺い、大変素晴らしかった。
「意味のある文字や文章」を書で描いた作品が、なぜか「抽象画」のように見えるのは何故か?
この書という世界は、意味を無意味にしてしまいながら、意味の意味を失わずに保っている。
特に石川さんの作品は、そのような要素が強いのではないかと思った。
希望を題材にした作品の数々は、ほとんどデザイン画のようにしか見えないものもあり、
こういう表現はよろしくないのは承知の上で敢えていうのであれば、
それらは石川さんの世間一般のイメージとは全く異なるようにも思える、大変に「可愛らしい」世界観を持った作品であった。
また、キャンバスのほぼすべてが墨で覆われた「芯」という作品は、
芯を描いたあとの滲みを計算してつくるのが難しいと石川さんがおっしゃっていたが、
非常にモダンな作品で、印象的だった。
この個展で最大の作品は2つあって、
ひとつは3・11に石川さん自身が捧げた文章を書にした作品。
もうひとつは故吉本隆明さんに捧げた文章を書にした作品だった。
「どちらも2週間くらいかけた作品だから、同じくらいの時間をかけて観賞していただいたら良いかも知れませんね。」
と、いたずらっぽい表情でご本人がお話くださった。
石川さんの著書、「書くということ」を読み始めたが、
その中で石川さんがおっしゃっている手書きが消滅しつつあり、
あらゆる表現においてもPCのキーボードが主流の役割を果たす時、
そこに本来的な意味での文化の発展はないという論を展開されている。
石川さんのおっしゃっている事は、恐らく正しいと動物的感性で感じた。
私たちが得たと同時に、失いつつあるものについてずっと考えていた時だったので余計に突き刺さった。
毎日何かを書くということを、しなくなって何年も経つ。
それはとても恐ろしいことなのではないだろうか。
意識的に手で「書く」事を、してゆくことが理想だ。
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