近況など。

2012年12月19日 by mayumi

なんだか細かく忙しくって、ブログもUPできていなかった。

だけれど気づけば師走も後半を過ぎている。

 

10月から先月にかけては、たくさんの出逢いとか新しいことが舞い込んできて、

対応できないくらい忙しかったけれど、それらはすべて今後の自分にとって必要な出逢いだったのだろうと思う。

ただ、人は自分の時間を浸食されてしまう程、他人への時間を割いているとおかしくなってしまう。

まさに、2か月ほど前の私がそうだったので、今は静かにその時やり残したことをしながら、

マイペースな時間を取り戻そうとしている。

 

 

oscillatorの新作の音楽制作はコンスタントに続いている。

ただ、これまで1曲につき軽く100回以上は手を加えているので、

この作業の終わりがいつになるのかは明言できない状態だけれども、

かなり完成に近づいている曲が殆どかと思っている。

 

期せずして事実上3人体制になったこの数年で培ってきたことだとは思うけれど、

oscillatorという音楽の「イメージ」をメンバーそれぞれが共有できていることが一番の判断基準になっているということがある。

それは、ある意味では「ブランドイメージ」に近いもので、

個々の自我とかテイストなどとは無縁のところにあるのかも知れない。

 

そもそもoscillator自体が学生時代から数々のメンバーチェンジを繰り返しながらも、

その音楽性は一貫したものを保ってきたという背景があるのだとは思うけれど、

その姿勢は無意識にも意識的にもかなりブランドイメージ的なものを大切にしてきたように思う。

 

 

「oscillatorが大切にしたいと感じている共通の音世界を忠実に再現する。」

そのことに注力してきた結果が現在のoscillatorなのではないか?ということ。

 

ほんとうにたまたまだではあるけれど、わたしはoscillatorのボーカルとして参加してから、

十数年が経ってしまったけれど、

oscillatorの音楽を聴いて最初に感じたことは今も創作の最大のモチベーションになっている。

ちなみにoscillatorの曲で最初に衝撃を受けた曲は前作のアルバム「ポピュラリティ」にも入っている「door」という曲で、

現在のリーダーである田中が作った曲である。

この曲に感銘を受けてoscillatorに参加したいと思ったといっても過言ではない。

 

 

話しは変わるが、先日の衆院選挙にていろいろ思うところがあり、

だからというわけでもないが、なぜこんな事態になってしまうのかということを知りたくて、

仲正昌樹著「日本の思想講義~ネット時代に、丸山眞男を熟読する~」を読んでいる。

 

超インテリの仲正さんの本は過去にも読ませて頂いたことがあるけれど、

勿論わたしなどにそのすべてを理解できるわけがない。

でも私が今回少しだけ読んで思っているのは、

ひょとしたらこれは思想界のみならず政治の世界や音楽業界にも普通に言えることなのではないだろうか?ということであり、

理解と認識とその判断力には次元というものが必ず存在し、

それに対する世間の大多数の反応や表層的な現象に対するげんなりした気持ちを持った人というのものが、

どの分野にも少なからず存在しているのかも知れないということだ。

 

同時にそれらはパラレルな存在でありそれを推し進めるのは、

個人の掘り下げ方でしかないのではないか?ということである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

休日のランチ。

2012年12月7日 by mayumi

数週間ほど前、10年以上前からの仲間たちと、久々に会った。

女性ばかり6人(+乳児1名)の会@青山。

大人になってから仲良くなった人は、子供の時からのそれとは違って、

かなり安定した関係性を築けるような気がする。

 

みんなそれぞれ違った立場だけれど、それぞれなりの実感、言葉が聞けて嬉しかった。

気負わずに続いていける関係って、すごくいいよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

前菜。盛り付け方がきれい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私が選んだのは、秋刀魚とキャベツのオリーブオイルと塩味のパスタ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鴨のソテー。ラズベリーのソース。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キャラメルのアイスにベリーのソース。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

黒ゴマのジェラードとクレームブリュレ。

 

 

ライブでの身体表現に関するメモ(再)

2012年12月3日 by mayumi

ツイッターでそんな話をしたけれど、

それだけでは説明が足りないと思うので2年前に日記に書いた考察メモを再度UPしてみます。

 

 

 

 

 

これはダンスではない。「音楽」のもうひとつの表出である。

 

正確にいえば、「音」そのものを身体にインプットし、その音が身体からアウトプットした表出である。

予め決められた音楽であっても、初めて聴いた音楽であっても、

いまそこにある「音」に対して反応することを目的とする。わたしはその時完全に変換装置になる。

身体という変換装置に。

 

なので、いっさいのエゴや感情の介入をさせないことに気を配る。

わたしはその時完全な受け身の存在としてそこにある。

 

 

「音」という名前の主人にたいして、わたしの身体がどれだけ忠誠を誓えるのか?

それが、この実験の目的であり観察するべき点である。

 

 

 

「音」といっても、いくつもの音がかさなりあっており、

それはその中のどの音にとか、それが何処から始まってどこに向かうのかということは予め予見できない。

 

 

その「音」を聴いてその「音」のある「部分」を身体が選びとり、

それが身体を通して変換されアウトプットされる。

 

 

それは予め決められた音楽であっても同じである。

 

なぜなら身体は毎秒ごとに変化しつづける存在であり、

その身体は毎秒ごとに聴こえてくる音のなかで重要視されてくる部分が違っている。

 

 

要するに、常に変化し続ける自分という装置は、

同じ音を聴いてもそのアウトプットは決して同じものにはならない。

 

 

この反応はまさにそれを目的とする。

 

 

いっさいのエゴや感情を介入させないというルールと、

身体を機械化させるというルールが、

自分ですら予期しない表出を生み出すことを最大の目的とする。

 

 

2010年 10月2日  2時41分 AM

欲望を起点に考える。

2012年12月2日 by mayumi

ひょっとしたら明日死ぬかも知れないので、

現時点でのわたしの考えていることをメモしてみる。

 

 

内容としてはきのうの続きになるけれども、

人はなんの為に生きているのか?いや、そんな大それたことを考えていなくとも、

いったい何がその人間を生かす原動力になっているのか?ということをこの数十年ひたすら考えている。

 

 

私なりの考察の結果、人は自分に「足りないもの」を自分に「枯渇」しているものを満たすために、

生きているのではないだろうか。

 

 

勿論これは、あるレベル以上の話しであって人類全ての人々にあてはまる話ではない。

 

 

生物としての動物としてのヒトとしての人間が、最も重要視しなければならないことは、「生きのびる」ことであり、

生きるという事は「食べる」という事だ。

 

 

すなわちここで私が言っていることは、人間が生きてゆくうえで必要な最低限の衣・食・住という要素を、

クリアしている場合を前提とした話しであり、

それ以前の場合は無論、その最低限の要素が「生きる」ことの意味であることは今さら私が言うまでもないだろう。

 

 

 

 

「無い物ねだり」という言葉は大変的確だと思うけれども、

そんな「ちょっと努力すれば手に入りそうなもの」のような欲望から、

そう簡単には手に入れられない欲望まで。

 

 

有名になりたい、権力が欲しい、金持ちになりたい、

美しくなりたい、美味しいものが食べたい、観たことのない景色を観たい・・・。

 

 

 

といった具合に、その種類も目的も様々な「欲望」という名の得体の知れないもの。

 

 

私たちの原動力はそこを起点にしてはいないだろうか・・?

 

 

そして、仮にそれを起点に人間が思考し、行動しているのだと考えると、

あまりにも、あまりにも分かりやすい世界=社会=あなたが、私の前に立ちはだかってくる。

 

 

欲望を起点として物事を見つめると、

そこに存在しているあらゆる現象が、それと切り離せない関係であることを理解するだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おはよう、おやすみ。ありがとう。

2012年12月1日 by mayumi

考えれば考えるほど、私たち人間の基本はシンプルだ。

複雑に見えるのは、そのシンプルさが何重にも積み重なって、その経路が複数の選択肢を持ってしまうから。

だが、その根本はシンプルなであることに気づく。

 

 

例えばたくさんの映画を観ていて、私は何のためにそれらを観ているのだろうか?ということだ。

いま即答で単純に答えるならば、それは想像力の旅に出るためだと思う。

知らない誰かの知らない物語を感じてみたい。

この世界にはわたしが実際出会う事ができる人以外にもこれだけたくさんの価値観で、状況で、

生きている人々がいるという事を想像する為にあるということになるだろう。

 

 

人間がとてもシンプルな存在であることに気づいたのは最近で、

そのことを理解できると世界中のすべての現象や、あるいは身近な家族、友人、子供たち。

そういった人々の行動や言動することの意味が普遍的な欲求に基づいていることに気づく。

 

 

その中でも最も大切なもの。

それが何なのかを探しながら、わたしたちは生きているような気がする。

 

 

なにかに迷ったりしたときは、シンプルになりたいなと思っている。

 

おはようっていうこと。おやすみっていうこと。

ありがとうって伝えること。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子蕪と柿と白いキノコのサラダ。

ゆずの皮と果汁とおかひじきを加えてさっぱりと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初めてグリーンカレーをつくった。

ペーストはタイに行った際に、珍しいものを見つけたので。

 

 

 

 

鶏肉、茄子、エリンギ、サツマイモ、フレッシュバジル。

 

 

 

 

フライパンでココナッツクリーム(orミルク)をよーく炒めて、

油とミルクが分離したところにココナッツクリームを注ぎ足すというのを、

3~4回くりかえして、鶏肉を炒めそこにナンプラー+砂糖+水を入れて、

しばらくしたら茄子とエリンギとさつま芋を入れてやわらかくなるまで煮込んだら、

フレッシュバジルを入れて2・3分でできあがり。

 

 

とっても優しい味。定番にしたいな。

 

 

 

 

 

 

絶妙なバランスの中で、常に新しい風が吹いていること。

2012年11月23日 by mayumi

一日の中の、一週間の中での自分の行動や時間の配分、

生活を回してゆきながら、最低限のしなければならない事をして、

ほんの少しだけ残った時間で「ほんとうにしたい事」をしてゆく。

 

成熟したわたしたちの社会は現在たくさんの問題を抱え、経済的にも、精神的にも余裕がない。

そんな時代に、どうやって「考え」、「生き」れば、自分が納得し充実した時間を過ごすことができるのだろうか・・?

 

そんな、事を考える時、一切の状況を無視し本能に従う形で考えた時、

私のなかに浮かびあがるのは「楽しい」と思う瞬間で埋め尽くしたいという事であり、

それを半永続的にするには、いったいどのように行動すべきか、

あるいは考えるべきかという事なのではないかということになる。

 

例えば私にとって音楽は、ただ「楽しい瞬間」のかたまりでしかない。

だからやっているし、それは聴く・創る・奏でる・表現する・ライブを観る/するといった音楽に関わるあらゆる行為を全て含めても、

無条件で無期限の最良の時間=生きていることを感じられる瞬間の連続なのだ。

 

 

音楽でも、友人関係でも、ファッションでも、仕事でも、行動バターンでも、

生活のリズムでも、話し方でも、キャラ設定でも何でもよいのだが、

その中で私にとって最も大切で絶対に必要な事は、常に新鮮で新しい風が吹いていることである。

 

それがなくなったら、たぶん私は終わるんだと思う。

生きているのに死んでいるのと変わらない、そんな風にきっとなってしまうだろう。

 

だから、わたしはわたしの為に自分にとっての常に新しい風を吹かせていないといけなくて、

それをするために工夫しなければいけない。

 

自分にとって新鮮でないことは、他人にとっても新鮮ではないことは明白であり、

わたしはやっぱり自分の為にも、私と直接的にあるいは間接的に接している私以外の人たちのためにも、

それをやりつづけたい。それが表面に現れるかは分からないけれども、意識の中だけでもそれをしていたい。

 

昨日よりあたらしい私のために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしの日々。

2012年11月12日 by mayumi

なぜだか、ずっと花を飾る気持ちになれなかったから、ひさびさの薔薇。

香りはしない種だけれど、発色がよくてきれい。

 

左下のポストカードは、知り合いの方がやっている下北沢のギャラリーで先日まで行われていた、

今井アレクサンドルさん展のもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私オリジナルの牡蠣のコンフィ。

すごく簡単なのに、なぜか特別な感じになれる。

 

作り方及び詳細は私のツイッターを参照してください!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さいきんは忙しくて時間をかけた料理をつくれない。

 

でも、時間があったらやりたいことはいっぱい・・・!

 

 

 

 

やりたいこと。それについて一生懸命考えることは意味があると思う。

 

そのなかで、一番やりたい事をやっているとき程、

 

満たされている時間はないと思うから。

 

 

その時間こそが、ひとりひとりにとっての意味のある時間なのだと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エルネスト・ネト

2012年11月9日 by mayumi

以前からとても好きなブラジルの現代美術家、エルネスト・ネトの展示を、

表参道のルイ・ヴィトン7Fにて開催している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

表参道の7Fから見渡す東京の景色は、ちょっとNYのマンハッタンぽい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「限られた時間のなかで、どうやって生きてゆこうか?」ということについてずっと考えている。

 

わたしには現実と夢の境がないから、

 

だったらあなたとだらしなく遊んでいたい。

 

 

目的なんてなくていい。

 

ただ。

 

その一言ひとことに。

 

浴びるような充実感を感じていたい。

 

 

 

 

 

私たちが得たと同時に、失いつつあるもの。

2012年10月31日 by mayumi

沖縄の古い民謡を聴いていると、その瞬間から異空間に放たれる。

 

私にとって心を解放し解き放つ音楽という意味では、

「アンビエント」~「ドローン」~「エレクトロニカ」及びその周辺の音楽と同じ位、

「民族音楽」という存在が必要不可欠だけれど、

古い沖縄民謡のそれは、とても特別な意味がある。

 

私は90年代の後半に、沖縄に住んでいたことがあって、

その音楽は私の記憶と密接に関わっているのだ。

(その辺りが虹釜太郎さんらとの重要な共通点かと勝手に思っている。)

けれど、この話はまたいつか。

 

前衛書家である石川九楊さんの個展最終日に伺い、大変素晴らしかった。

 

「意味のある文字や文章」を書で描いた作品が、なぜか「抽象画」のように見えるのは何故か?

この書という世界は、意味を無意味にしてしまいながら、意味の意味を失わずに保っている。

 

特に石川さんの作品は、そのような要素が強いのではないかと思った。

希望を題材にした作品の数々は、ほとんどデザイン画のようにしか見えないものもあり、

こういう表現はよろしくないのは承知の上で敢えていうのであれば、

それらは石川さんの世間一般のイメージとは全く異なるようにも思える、大変に「可愛らしい」世界観を持った作品であった。

 

また、キャンバスのほぼすべてが墨で覆われた「芯」という作品は、

芯を描いたあとの滲みを計算してつくるのが難しいと石川さんがおっしゃっていたが、

非常にモダンな作品で、印象的だった。

この個展で最大の作品は2つあって、

ひとつは3・11に石川さん自身が捧げた文章を書にした作品。

もうひとつは故吉本隆明さんに捧げた文章を書にした作品だった。

 

「どちらも2週間くらいかけた作品だから、同じくらいの時間をかけて観賞していただいたら良いかも知れませんね。」

と、いたずらっぽい表情でご本人がお話くださった。

 

 

 

石川さんの著書、「書くということ」を読み始めたが、

その中で石川さんがおっしゃっている手書きが消滅しつつあり、

あらゆる表現においてもPCのキーボードが主流の役割を果たす時、

そこに本来的な意味での文化の発展はないという論を展開されている。

 

 

石川さんのおっしゃっている事は、恐らく正しいと動物的感性で感じた。

 

私たちが得たと同時に、失いつつあるものについてずっと考えていた時だったので余計に突き刺さった。

 

毎日何かを書くということを、しなくなって何年も経つ。

それはとても恐ろしいことなのではないだろうか。

 

意識的に手で「書く」事を、してゆくことが理想だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「好きなもの」は、ずっとすきなもの。

2012年10月26日 by mayumi

紫とうす紫の小さい花。

 

これは菊の仲間・・?可愛い。

 

 

 

 

 

 

 

東京国際フォーラムのある場所の、そこへと続く床がすき。